砂浜の瓶詰め

砂浜を瓶に詰めて、わたしだけの小さな海を作りたい。ハワイの有益な情報はほとんどありません。

恐怖論

物心ついたときには、すでにホラーが好きだった。

というと流石に誇大広告であるが、割と小さいときからホラー好きであったことは間違いない。「ホラー」というよりむしろ「こわいおはなし」だったであろうが、小学生の頃には既にレジェンドホラー漫画家である楳図かずお、犬木加奈子、伊藤潤二、御茶漬海苔らを愛読していた。好きなテレビ番組は『アンビリバボー』や『あなたの知らない世界』、それからまだまだデビューして間もなかった嵐がMCだった『USO?!ジャパン』。アニメでは『地獄先生ぬ〜べ〜』に『学校の怪談』。心霊現象だけではなく、超能力、未解決事件や都市伝説、未確認生物に至るまで手広く嗜んでいた。とんでもない小学生である。その頃はまだ、怖い映画と言ってもたかが知れているレベルのものだけを見ていたし、夜トイレが怖くなることもあったのでまだカワイイものであった。

小学校を卒業する頃には、本格的なホラー小説にハマった。幸いにも本であれば好きなだけ買ってくれる家庭だったため、角川ホラー文庫は片っ端から読んだ。岩井志麻子が岡山弁で綴る筆致には親近感の中に並々ならぬ鬼胎を抱いた。人生で初めて読破した長編小説は貴志祐介の『黒い家』だ。いつか大石圭のような、ぬめりとした官能と恐怖のマリアージュを書き上げるようなホラー作家になりたいと、セックスどころか手も繋いだこともないようなケツの青いガキは夢を見ていたものである。

タガが外れたのは一人暮らしを始めてからだろうか。当時はまだサブスクなんてなかったから、レンタルビデオ屋で借りてくるか、まだ黎明期だったYoutubeや、現役だったフラッシュ動画で怖い動画を漁った。そしてネットに転がっている誰かの創作やフォークロアを布団にくるまって読み続ける毎日だった。そしてホラーとひとことに言っても、そこからさらに多くのジャンルに枝分かれしていることも学んだ。

例えば幽霊と殺人鬼では全く違うが、どちらもホラー扱いされる。幽霊、と言ったっていろんなタイプがいる。土地に巣食うものもいれば恨み辛みが主電源のやつもいる。土地にへばりつくタイプの幽霊も、土着信仰から生まれたヤツと、先祖の因縁が原因のヤツではまた話が変わってくる。別に幽霊が出てこなくたって怖いものはある。時には化学物質だったり、宗教だったり、人体実験だったり、名作中の名作ではなんとミトコンドリアが恐怖の根源とされていた。正直、書ききれないほど細分化されているのである。

それまではゴアはノーセンキューだった私も、精神が図太くなったと同時に、何かの拍子に見たホラー映画作成の裏側のドキュメンタリーで「血のりのリアルさを追求していく」というシーンで奮闘する新人助監督の姿を見てから、ホラー映画は所詮作り物だし、その裏にはこんなプロフェッショナリズムがあるのだと思えるようになってからは平気になった。それでも時々、ホラー映画を見た後はそれを反芻するような夢を見る。とはいえ、元々夢見が悪いほうなので、それがホラー映画のせいかどうかは分からない。

なぜ、私はこんなにも恐怖に魅了されるのだろうか。

世の中にはもっと怖いものがたくさんある。女優の演じる幽霊よりも、残高が減りゆく銀行口座の方がよっぽど怖い。どこか知らない土地に脈々と続く呪いなんかよりも、突然部屋に現れるゴキブリの方がずっと厄介だ。そもそも、「怖い」なんて負の感情を、わざわざ時間とお金を費やして得ようとする行為は全くの無駄である。それでも、私がそうしてしまうのはなぜだろうか。

一つは単純に好きだから。人間誰しも、好きなもの嫌いなものがあるように、私の場合はたまたまそれがホラーものだったということ。料理が好き、アイドルが好き、野球観戦が好き。それと全く同じただの趣味嗜好である。

そしてもう一つ、本当に誤解を恐れずに言うならば、私はこれをテイのいい自傷行為だと思っている。怖いと感じることで、生きていること、そして生きたいと思っていることを実感できる。

もし私がすでに死んでしまっていたら、きっと怖いものなんてないだろう。生きたくないのであれば、何を見たところで心は何も動かないはずだ。でも、私は怖いと感じる。あのドアの隙間から何かが何かがコチラを覗いていたら、と想像する頭と心がある。スクリーンに映る虚構の傷跡に共鳴して、痛みを覚える。それはすなわち、私がまだ生命体として、思考回路を兼ね揃えた肉体として、ここに存在することの証明なのだ。

と勝手に結論づけてみたものの、これはあながち間違いではないと信じたい。事実、多くのホラー映画やホラー漫画、そしてホラー小説を消費してきたが、人が死なないホラーは滅多にお目にかかれない。恐怖と生命は常に隣り合わせだし、「怖い」という感情は生きるために必要不可欠なものとしてプログラミングされている。人類が「怖い」と思えない生き物だったら、あからさまに危ない場所にホイホイ行って痛い目を見るだろうし、生まれたてふにゃふにゃの赤ん坊をそこらへんに放置してもなんとも思わず、とっくのとうに絶滅しているはずだ。人間は恐怖を克服するために知恵をつけ、恐怖から逃れるために安全を求め続けるのではないだろうか。

なんだか壮大な話になってしまったが、私とてそんなことを毎回考えているわけではない。ただ、ホラー映画を見終わった後の全身が脱力するような感覚や、ホラー小説を読了した後の妙な解脱感がクセになっているだけだ。私はただ、楽しんでいるだけなのだ。と思いたいが、もしかすると、こうしてたらたら講釈を垂れ、ホラーを摂取する言い訳を作っているだけだろうか。そうすると、ひょっとして私は何かに操られているのかもしれない。その「何か」は、もしかしたら私の家系を呪う何者かの仕業かもしれないし、経口摂取したウイルスかもしれないし、実はカルト教団に洗脳されているのかもしれないし、この部屋でかつて命を落とした者の無念ゆえかもしれない。その答えはまだ、わからない。