砂浜の瓶詰め

砂浜を瓶に詰めて、わたしだけの小さな海を作りたい。ハワイの有益な情報はほとんどありません。

水兵服に恋して

セーラー服を着てみたい人生であった。

それだけ言うと、完全に変態の発言になるが、セーラー服には並々ならぬ欲求がある。というのも、小学校から高校までの十二年、制服がセーラー服だったことがないのである。香川県以外の方には馴染みがないと思うが、香川県では公立の小学校であっても全員制服である。他の都道府県では小学校のうちは私服で、中学校から制服というのがスタンダードだと知ったときは、心底たまげた。

私は訳あって地元の公立には通っていなかったのだが、地元の公立の制服がとても羨ましかった。小学校はセーラー服に赤いスカーフ、中学校は同じくセーラー服に青に近い紺色のリボン。背中にかかる大きな襟。その制服を身に纏った子供たちとすれ違うたびに、心底羨ましく思った。あのリボンはどうやって結ぶのだろうか。大きい方がイケてるとされるのだろうか。セーラー服への疑問と羨望は、どうしようもない中学生女子の中で膨れ上がっていった。同じように思っていた同校の友人も少なくはなく、部活の大会に行くたびに、やれあの中学校のリボンがかわいいとか、あの襟が個性的だとか、そんな話ばかりしていた。

高校はど定番のブレザー。詳しく書くと特定されそうだが、私は高校受験に失敗し、同じく受験失敗組が集まると言われる高校に通っていた。これもまた香川県独特なのかもしれないが、高校は公立が最高で、私立は公立に行けなかったやつが行くところ、という風潮があった。今は知らないが、私の時は公立高校の入試のチャンスはたった一回。推薦入試も、二次募集もなかった。それをしくじると、高卒となるためには私立に行かざるを得ないのである。私立の方がレベルが高い都会とは真逆である。

嘘かまことか、県内では卒業した大学よりも高校の名前で就職先が決まるという話もあった。極論、私立高校から東大に行った人よりも、公立高校から香大(注・香川大学)に行った人の方が県内では就職しやすいという話である。どの高校に行ったかで人生が決まってしまう。今となっては絶対にそんなことはないと断言できるのだが、公立高校に落ちた、というのは弱冠十五歳の子供にはそれほどのインパクトをもたらす出来事であった。

当時の私もまた、そんな空気に完全に飲まれていた。公立に行けなかったから、もう人生終わりだと思っていた。だから、私立の制服を着ているだけで自分が受験に失敗したという事実を突きつけられるような気がしていた。負け組のレッテルを貼られているような、後ろから指を刺されているような気分になったことも一度や二度ではない。それはひとえに、私の未熟さと土地柄ゆえで、本当に無駄な葛藤であったと思う。今もし、あの頃の自分に声をかけられるとしたら、そんなことで悩んでいる暇があったらもっと勉強しておけと言いたい。もっと、青春しておけと言いたい。あと10キロ痩せて、一回くらいはスカートを折ってみろと言いたい。

ともあれ、そういった訳もあって、なかなか可愛かったそのブレザーも好きにはなれなかった。そして十二年の制服生活は、一度も満足することなく幕を閉じたのである。

さすがに今更、セーラー服を着ようとも思わない。あいにくそういった趣味も、そういった趣味を持ったパートナーも、持ち合わせてはいない。きっとこんなにもセーラー服を渇望するのは、単純に昔に味わった強烈な隣の芝は青い感情と初めての挫折があまりに色濃く、そしておそらくはそこからさらに遡って、セーラームーンのせいだろうと、勝手に結論づけている。

時はセーラームーン全盛期。言うまでもないが、セーラー服に身を包んで戦闘する彼女たちは、当時の女の子の心を鷲掴みにしたものである。一定以上の年齢の日本人女性はほぼ全ての惑星を英語で言えるはずだ。私も御多分に洩れず、セーラー戦士の一員として幼少期を過ごしていた。

その中でも、頭脳派のセーラーマーキュリーが好きだった。彼女のカラーが青だったこともあり、幼稚園ではあまり人気がなかったように記憶している。それゆえ、セーラームーンごっこのときは、取り合いになることがなかったので嬉しかったものだ。そして私は、彼女のように「あたまのいいおねえさん」になりたかった。素敵な彼氏のいるセーラームーンでもなく、(この彼氏については賛否両論あるが)、空手の強いジュピターでもなく、美貌を武器にするヴィーナスでもなく。ある意味堅実な選択であった。その憧れを少しでもノートにぶつけていたら、もしかしたら制服人生のうちの最後の三年間は違ったものだったかもしれないし、今「あたまのいいおねえさん」になれていたかもしれない。

三十歳を超えた今、残念なことに私は完全に「あたまのおかしいおねえさん」と成り果てている。そうでないおねえさんはこんな夜中に、セーラー服について熱く語ったりしないだろう。セーラーマーキュリーも、あの頃の私も幻滅しているだろうが、セーラー服を着ていないだけで許していただきたい。