人生は出会いと別れの連続である。
情熱的に囁き合った愛がいつしか煮えたぎる憎悪に変わることもあれば、邂逅の果てに一生の絆が生まれることもある。特にドラマチックな人生を歩んでいなくとも、そういったことは起こる。
こんな話を聞いたことがある。実は人間の脳は、ただ道ですれ違っただけの人の顔や、レジで前に並んでいた人の顔、たまたまエレベーターで乗り合わせた配送業者さんの顔まで覚えているのだという。もちろん意識することはないし、きっと思い出そうとしても思い出せないであろうが、深層心理の中にはその膨大な量の「顔」たちは記憶として溜められているのだという。そして私たちが夢を見るとき、それらはモブキャラとして登場しているらしい。だから夢が妙にリアルさを帯びてくるのだという。だとすると、ほんのカンマ数秒の出会いでさえも、私たちの脳みそは「出会い」として記録しているということである。もう二度と会うこともない人たちであるにも関わらず。
なんだか脳のリソースの無駄遣いにも思える。その容量があるのなら、それを削除して英単語の一つでも覚えてほしいし、何回会っても覚えられない顔の人もいるのだから、そっちを優先して覚えてほしい。
私が営業職だったとき、顔を覚えるのに覚えるのに難渋した人たちは少なくなく、いただいた名刺に似顔絵や特徴を書いたポストイットを貼って管理していた。退職にあたり、名刺を処分すると同時に引き継ぎ作業をしていた際、後輩がポツンと言った「結構な枚数、『小柄な女性』って書いてありますが、先輩より大柄な女性はあまりいないと思います」は生涯忘れられない。彼は今頃、何をしているだろうか。私が職を辞してしばらくして、彼もまた違う道を選んだと聞く。今もどこかで幸せに暮らしていてほしいものである。
人生の主人公は自分である、というのはいささか使い古されたフレーズであろうか。
自分の力ではどうしようもないことも含め、自分しか自分の人生を歩めないことを指すのであれば、その表現は正しい。自分以外に、これまでの自分の人生を一寸の狂いもなく同じように歩んだ人はいない。私と同じように、あの年の二月の寒い日、夕方五時半に生まれた人はきっといるだろうが、そのあとに生まれて初めてかけられた言葉はきっと違う。自分の人生を一つの舞台だとするならば、生まれ落ちた瞬間から死ぬその瞬間まで、舞台の真ん中に立っているのは私しかいない。
時には隣に立っている人も、睨み合う人も、肩を抱く人も、傷つけ合う人も、共に眠りにつく人もいるかもしれないが、彼ら彼女らはそれぞれの人生の真ん中にいる。それがベン図のように重なった瞬間があるかないか、そしてそれが大きいのか小さいのか、長く重なっていたのかそれとも一瞬だったのか、その違いはあるだろうが、完全にピッタリと一致することはない。あるとすれば、もし、私が子を宿したときであろうか。その十月十日だけが、二つの丸が重なり合う唯一の時なのかもしれない。その子ですら、産声を上げた瞬間からはゆっくりと離れてゆくのだろう。
そうすると、出会いも別れも、人生という一人芝居のなかで幾度となく繰り返される、起承転結の一コマにすぎないのかもしれない。なんだか滑稽で寂しい気もする。だから、脳は可能な限り、出会いを覚えておこうとするのだろうか。夢の中でもいい、誰かと集合の範囲を重ね合わせていたいと思うのだろうか。高校一年生の春、数学Aの教室で私に集合の概念を説いたのは誰だったか。もう名前は忘れてしまったけれど、あの女性教師の肩まで伸びた癖毛や、分厚い縁のないメガネや、その奥の優しげな垂れ目は今でも覚えている。大きな前歯が目立つ笑顔や、ぽってりとした唇も覚えている。
今日も、明日も明後日も。私たちは出会いと別れを繰り返していく。道ですれ違っただけの人さえも出会いとしてカウントする私たちの孤独な脳は、別れを別れとして数えることを拒む。全てを脳梁の奥深く刻み込み、駄々っ子のようにその全てを抱きかかえて今日もまた、眠りにつく。