砂浜の瓶詰め

砂浜を瓶に詰めて、小さな海を作りたい。ハワイの有益な情報はほとんどありません。

いろいろと。

また文章が書けなくなっていた。

ブログを更新しない言い訳にしか聞こえないような気もするが、どうも私の情緒と文章能力は比例するらしく、あれも書こうこれも書こうと思ってはいるものの、いざコンピューターを目の前にすると何も手が動かず、ダラダラとネットサーフィンをしてみたりYOUTUBEを見てみたり、時間だけがただ無為に過ぎていってしまった。とはいえ、決して病んでいるというわけではなく、日々まあそれなりに生きている。あとは、毎年毎年こりもせずに応募している「お〜いお茶俳句大賞」に出す俳句を捻り出したりしていた。過去2、3回受賞したことがあるのだが、まだお茶には載ったことがないので今年こそは、と思ったのだが、100%納得のいくものはできなかった。けれど、こねくり回して詠んだ句よりも、肩の力を抜いて真っ直ぐに詠んだ句の方が良い評価をいただけることも多いので、今年こそは過去最高位を受賞したいものである。

そんなこんなで、毎日がハッピーハッピーハッピーというわけではもちろんないのだが、及第点の幸せを感じてはいる。美味しいものも食べているし、清潔な住居もある。推しもいるし、とりあえず今のところ健康でもある。そういえば、つい先日、1年に1回の婦人科のチェックアップに行ったら人生で初めて血圧が高めだと言われてしまった。一応、正常範囲内ではあるものの、前回に比べると高くなっていたらしい。体重も増えたことだし、ちょっくらダイエットするかと重い腰をあげなくてはと思っているところではある。腰はまだ上がっていない。世の中には美味しいものが多すぎるのである。

美味しいものといえば、先月食べた玉藤のトンカツは涙が出るほど美味しかった。4ヶ月前から予約していただき、初玉藤。ちなみに玉藤とは北海道に拠点をかまえるトンカツ屋で、ハワイでは予約の取れない名店の一つである。自分だけだったら絶対に行かなかったであろう名店、周りの優しい方々のおかげでデビューしてきた。衣はサックサクだし、肉はジューシーで柔らかい。白米・梅ひじき・炊き込みの中から選べるご飯も絶品で、2杯も食べてしまった。小鉢や味噌汁に至るまでも最高に美味しかった。何ならキャベツもふわふわだった。葉っぱ食べてる場合じゃない!とキャベツのおかわりはしなかったが、あのキャベツが家で再現できるのならばダイエットも成功できそうな気がする。その後は玉藤美味しかったな、玉藤また行きたいなとうわ言のように繰り返す日々。次は家族を連れていってやるかと予約できたのは、なんと最短の10月。残り半年、私はまた玉藤にうなされながら過ごしていくのだ。

と、こんな具合で私の脳みその中はとっ散らかっているし、書くネタはそこそこあるのだが、何せ文章としてまとめたり、いい感じのオチをつけようとすると途端にハードルが高くなってしまうのである。別にこのブログを大きくしたいとか、たくさんの人に読んでほしいとか、収益化したいとかそういった野心は今のところはないので、こういう記事でもいいのかなと思ったりもする。ただ、文章力というのはナマモノであり、書いていかないととにかく腐っていく。手を動かして、頭と心をフル回転させて、やっと維持できるものなのだろうと思う。5・7・5の17文字を埋めるのも大変であったが、今こうして1000字を羅列するもかなり大変だ。腐っていったのは、このたるみ切ったお腹だけではないのだと改めて反省しきり。心も体も文章力も、また鍛えていこうと思う次第である。

プラトニックセックスー愛の刹那に欲しかったもの

本当に、ふと思い出した。

かつて、飯島愛と呼ばれた女がいたことを。「元AV女優で、その後地上波で人気タレントになり、早くに引退し、そして孤独な最期を遂げた女」言葉を選ばずに世間一般のイメージを文字にすると、そうなるだろう。彼女が亡くなった時、某雑誌がインパクトの強い追悼ページを掲載したことで、それは電子の海でオモチャになり、若い女性を、あるいは夜の街に生きる女性たちを蔑む笑いの種となった。

今よりももっと、アダルトコンテンツに出演する人々への差別が酷かった時代。実際に、彼女が地上波テレビやファッション雑誌などの「普通の人が目にする媒体」に登場することをよしとしない人たちも多かっただろう。彼女は自身の経験も踏まえながら、STDやHIVの啓蒙活動にも熱心に取り組んでいたが、それもまた、心無い人たちの好奇の目に歪められていたことも容易に推測できる。私は彼女がアダルトコンテンツに出ていた時期や、深夜番組でTバックの女王と崇められていた時代を知らない。私が知っているのは、痛いほど真っ直ぐに自分の言葉を紡いでいた姿である。「サンデージャポン」や「金スマ」で何にも誰にも臆することもなくカメラの前に立つ姿である。子供だった頃の私は、その凜とした姿になんとも言えぬ、憧れに近い何かを抱いたものである。

そんな彼女の自伝、『プラトニックセックス』。いつか読んでみたいとずっと思っていたのに、他のお利口さんな「読んでみたいリスト」に埋もれて機会を逸していた。久々に読書でもしてみるか、と思ったときに、ふと彼女のことを思い出したのも何かの縁だろうか。

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赤裸々、自伝的、という謳い文句の通り、彼女の半生について、彼女自身の言葉で紡いであるーと言いたいところであるが、ゴーストライターもいたようなので(と言っても公になっている以上ゴーストとは言えない気もするが)どこまでが本心で、どれが彼女自身の言葉なのかは定かではない。文筆家ではないので、砕けた表現も多いし、話の展開が読み物として優れているわけではない。

しかし、幼少の頃の鬱屈した家庭、彼女がいかにして夜の街の虜になり、そしてアダルトコンテンツに足を踏み入れたのか、そしてその裏側にどんなドラマがあったのかをあけすけに書いてくれている。当時、彼女が書いたであろうメモや日記もそのまま掲載されている。彼女のまっさらな気持ちを読んでいると、胸が詰まる。最後の最後には救いがある。作品としては救いのあるエンディングで幕を閉じる。しかし、彼女の人生の本当の結末を知っていると、そこに本当に救いはあったのだろうか。と考えてしまったが、彼女の生きた証とも言える彼女のブログのことに思いを馳せてみると自ずと答えは出てくる。彼女の死後、誰が管理し、どういう終わりを迎えたかーそれを考えると、彼女の人生には本当に救いがあったと言えるだろう。作中、最後の最後、もがくように望んでいた救いがあったと、私はそう信じたい。

ページを一枚ずつ捲るたびに、すなわち彼女が一歩ずつその足をすすめるときに印象的であったのは、作中でも繰り返し登場する、自分の旅路に関して「開き直る」という言葉。あまりに刹那的で、だからこそ考えなしに人生を棒に振ったとか、目先の楽しみやお金のために選ぶべきではない道を選んだとか言われてしまうのだろうが、きっとそうではなかったのだと思う。きっと彼女にしかわからない、他の人にわかってもらいたくもない、一瞬一瞬、弾けて消えてしまうような生き方があったのだと、思う。

一方で、彼女が愛している人に対して向ける言葉は、むず痒くなるほどに情熱的で、それでいて幼い。自分は母親に愛されていると疑いもしない子供の瞳にじっと見透かされているような気持ちになる。自身については「開き直り」続けていた彼女であったが、愛に対しては一度も開き直ったことなどないようだ。ずっと、彼女は自分の愛の終着点を探していたし、誰かの愛の終着点になりたがっていた。愛してほしい、と言えなくなってしまうのを成長と呼ぶのならば、彼女はきっと、ずっと永遠の赤子であっただろう。

彼女はきっと、あまりに純粋すぎた。愛というものに対して、この世界というものに対して。プラトニックなセックスーそれは、この世には存在し得ないけれども、彼女が心の底から欲しかったものなのかもしれない。

 

 

 

コカイン・ベアー愛すべきモフモフのB級映画

クマをかわいいというのは、大きな誤りである。

少し前に、日本ではクマによる獣害が多くなっていると報道されていた。リラックマや熊のプーさんのイメージとはかけ離れている現実のクマは、その鋭利な爪と強靭な肉体をして人間に大きなダメージを与えうる。動物園に行ったことのある方はご存知だと思うが、強烈な獣臭もする。なぜ、あんなに「カワイイ動物の代表です」のような扱いをされているのか分からない。映画に出てくるクマもまた、TEDやパディントンのようにカワイイのである。数あるアニマルパニック映画でも、クマが出てくるのは『ブラックフット』や『グリズリー・レイジ』あたりだろうか。擦られまくっているサメやらヘビやらに比べると、そう多くはない。

そんなクマを題材にしたアニマルパニック映画の最新作、それもタイトルからしてもB級の匂いがプンプンする『コカイン・ベア』を見てみた。一応ホラー映画にカテゴライズされるらしい。余談になるが、私の一番好きな映画のジャンルはB級ホラー、ホラーコメディ、次いでホラーなので、この作品は私の専門(?)といえよう。

cocainebear.jp

タイトルの通り、要はコカインでキマってしまったクマさんが殺戮劇を繰り広げていくのである。クマさんだけではないのだが、まあそこそこに血飛沫スプラッタではある。ストーリー展開はある程度予想の通り。ドラッグディーラーとそれを追う刑事、思春期ティーンズにエモぶった奴らまで出てきてしっちゃかめっちゃか。コカインとクマさんの周りでは3つ4つの話が同時進行で進んでいくが、B級なので伏線の回収はあるわけもなく、いい感じの投げっぱなしである。それ必要?というどんでん返しもあるが、キメキメクマさんの前ではどうでもよくなってしまう。

ちなみにこれは実話に基づいているらしく、実際はコカインを過剰摂取してしまったクマは残念ながら死んでしまったらしい。今作ではその仲間の怨念を晴らすべく、なのかどうなのか知らないけれど、キメにキメて人間を襲ってくる。その姿はもはや爽快。クマさんによってパニックになった人間どもの慌てっぷりと自滅っぷりをコミカルに描ききっているのには、拍手を送りたい。

この作品を通して何を伝えたいのかーということが全く見えてこないのがB級ホラーの醍醐味だと思っているが、強いていうならば親子がテーマである。人間でも動物でも、親子の絆はあるのだということ、そして下手すると動物の方が絆が深いのではないかと思わされる仕上がりであった。あと、やっぱりドラッグはダメ。コカインがとてもライトに描かれているので、サクサク進んでしまうのだけれど、クマさん以外がとても自然にドラッグを摂取しちゃうシーンはちょっと自分の倫理観がNOと言っていた。もしかしたら、それがアメリカの日常なのかもしれないけれど。もしそうだとしたら、コカインでキマったクマよりも、そっちの方が怖いなと思うのだった。

 

子供:死なない

動物:死なない

グロ:ややグロ

セックス:なし

 

 

ヒトとして生きるか、ニワトリとして生きるか

私はヒトの子である。

母はヒトであるし、父もヒトである。母がニワトリと浮気をしたという話も聞かないし、翼もないので、ほぼ間違いなくヒトの子であろう。ヒトの親になるかどうかはまだわからないが、ヒトの子であることは一生涯かわりのない事実である。

ここで、「人」ではなく「ヒト」と表記しているのは、生物学上の意味を示したいからだ。決してカッコつけているわけではない。世の中には、親とも呼べぬ親はたくさんいるし、そんな親から生まれた方々がいることも重々承知している。そこに無償の親子愛を求めることが、そして血のつながりとやらを強調するのが、どんなに酷であるかを考えると、容易く「人の子」というのは憚られる。だから、我々は皆、生物学的にはホモサピエンスの子である、という意味で読んでいただけると嬉しい。

ヒトの子として生まれ落ちたからには、他のヒトの子と関わって生きていかねばならない。いいこともあるし、悪いこともあるし、嫌なことも、幸せなことも、たくさんある。それがこの世界の秩序であり、ヒトとして生きていく上で必要不可欠なことなのだから、これはもう諦める他ないと思う。誰とも関わらずに一人で生きていきたいと思うことはしょっちゅうであるが、不可能なので受け入れて生きていくしかない。腑に落ちないことではあるが、こればかりはもう、そういうものだと飲み込むしかないのである。

自分がヒトの子であるように、目の前のヒトもまた、ヒトの子である。そのヒトは、そのヒトだけの感情も、生活も、好き嫌いも、そのまた他のヒトとの関係も持っている。その「他のヒトとの関係」を家族と呼ぶのか、恋人と呼ぶのか、友人と呼ぶのかは分からないが、そして、それが幸せなものであるかどうかはまた別の議論となるので割愛するが、平たくいうとそのヒトにはそのヒトだけの尊ぶべき人生がある。そのヒトが自身の人生についてどう思っているのかは関係のなく、そのヒトにはそのヒトが歩んできた人生があることと、そのヒトだけが進むことのできる旅路を持っていることを忘れてはならないのである。

貴方様はまさかトリの子、そうでもなければなぜそんなにも同じヒトを突っつくような真似ができましょうか、と思ってしまうこともある。ニワトリでももっと他のニワトリと仲良くするんじゃなかろうかと、鳥舎に駆け込みたくなる衝動に駆られる。イマジナリー鳥舎の中はさながら魅惑のチキルームで、ニワトリに辿り着く前に原色の鳥たちに邪魔されてしまう。青やら赤やらの鳥に囲まれて頭を冷やしながら、人のふり見て何とやら、自分も人様を突っついたり噛み付いたりすることのないよう気をつけなければ、と思った次第である。それでもまだ気持ちが収まらなかったので、イマジナリー鳥舎の中から強そうなやつを連れて鬼ヶ島へ旅に出ることにした。この辺りでも怒りがおさまらなければ、イマジナリー焼き鳥爆食ツアーになりそうだが、今のところそこまでいったことはない。

とにかく、それくらい、ヒトとして生きていくのは大変だ。すぐ忘れられるのならば、ニワトリの子でもいいかな、と思ってしまう。ニワトリと不貞しなかった母を恨む。しかしながら、その大変さを知っているから、なるべく同じヒトには優しくいたいと思っている。少なくとも、ヒトをコケにしたり、バサバサ威嚇したり、そういうヒトにはならないでおこうと思う。ヒトだけではない。たとえ頭の中であっても、お供を焼いて食うようなヒトにもならないでおこうとも、思う。

 

ジェーン・ドゥの解剖ー恐怖は陽だまりの中に

死体は動かない。

動かないのは当たり前で、動けばそれはゾンビと呼ばれる。ゾンビものは好きであるが、今日はあまりにホラー愛好家のレビューが高かった『ジェーン・ドウの解剖』を見て、こういうパターンもあるのかと膝を打ったので、ちょっと講釈を垂れてみたいと思う。ちなみにこちらはいわゆるゾンビものではない。変な導入にしてしまったが、「死体は動かない」という当たり前の概念がキーポイントになることは間違いない。

www.shochiku.co.jp

 

ジェーン・ドウはいわゆる「名無しの権兵衛」的な意味合いがあり、要するに名前のわからない女性のことを指す。舞台は、アメリカの田舎町。検死と火葬を担う父子の元に身元のわからない女性の全裸遺体が運ばれてきたところから、物語の歯車が動き出す。父子は粛々と職務を全うしていくのだが、徐々におかしなことが起こり始める。

本当にたまたまなのだが、前回見た『LAMB』同様にキリスト教観の強い作品であった。しかしながらこちらは、レビ記が出てきたり、解剖を通して色々説明してくれるような作りであったため、置いていかれたような感じはなく、「腑に落ちる」結末であった。ジェーン・ドウが何者なのか、そしてラストシーンが意味するものについては考察も分かれているようなので、一から十まで説明してくれるわけではないのだが(そしてホラー映画はそういうものなのだが)、非常にまとまりのある作品であった。

ネタバレはしたくないので詳しくは割愛するが、ホラー映画の根底にある、というよりむしろあってほしい「理不尽さ」はものすごい。その「頭を使う恐怖」と、「直感的な恐怖」がとても良いバランスでこちらに語りかけてくる。だから、本能的な怖さと、じわじわくる怖さが両立していて、嫌な消化不良を起こさなくて済む、本当に解像度の高いホラー映画であった。震え上がって眠れなくなるほど怖いわけではないし、視覚的に「恐ろしいもの」が登場するのはさして多くはない。解剖シーンはかなりリアルなので、血や内臓がダメな方は見ないほうが良いと思うが、いわゆるスプラッターではない。「頭を使う恐怖」だけでは頭でっかちなねっとりホラーになってしまうし、「直感的な恐怖」だけではチープなものになってしまう。そのバランスがホラー映画のカギを握っているのならば、本作はそこをかなり上手くついてきている。

舞台は主人公父子の家で完結しているので、ドタバタすることもなく、非常に静かな映画である。だからこそ際立つのが音の不気味さである。それだけ聞けば、別に怖い音でもないのかもしれない「音」がこちらの心臓の健康を握っているのは間違いない。お恥ずかしい話だが、途中で怖くなって音量を下げてしまった。お化けがドーン!とか、殺人鬼がギャー!のような音の怖さではなく、「この音楽って……もしかして…」と思わせる、不穏で不快な音の使い方が非常に上手であった。ラストシーンの背景で流れている音楽なんて、もうチビるかと思った。最後の一音は少しだけ余計であった気がしたのだが、それが意図的であるのか、ただの物理的なものなのかも含めて、こちらに含みを持たせた終わり方だと思うと、それも上手だと思わざるを得ない。

私はホラーが好きだ。ホラー映画も好きだし、ホラー小説もよく読む。一方で非常に怖がりだ。なので、ホラー映画を一人で見た後は、絶対に何かくだらないコメディやおもしろい動画、癒される動画を見てから寝る。さもないと寝付けないし変な夢を見るしでえらいことになるのは確実だからだ。今こうしてブログを書いている隣では、延々と『ぐでたま』を垂れ流している。軽快なテーマソングに、恐怖の記憶が上書きされて安心しているのだが、いつかこれが前述の音楽に変わったらどうしようと思い始めてしまった。恐怖心のタネのようなものをしっかりと植え付けられてしまったのだろう。電気が消えたり、天気が悪くなったらどうしようと思い始める前に、彼女の美しいグレーの瞳を思い出してしまう前に、さっさと床につくのが賢明なのかもしれない。

 

 

子供:死なない

動物:死ぬ

セックスシーン:なし。ヌードはあり。

グロテスク描写:あり。ただしスプラッターではない。

心臓に悪いシーン:ややあり

 

子豚は長靴を履かない

かつて長靴を履いたのは、猫であったか。

最近のハワイは雨季なのか、土砂降りの雨になることがある。少々の通り雨なら、水も滴るいい女を気取って歩くのだが、バケツをひっくり返したような雨になるとそうはいかない。本当に先進国なのかと疑いたくなるほど道が悪いので、水が捌けない。道の至る所に子供用プールかと思うくらいの水たまりができ、そこをアロハスピリットのかけらもない車が通っていく。日本のようにコンビニですぐに傘が買えるわけではなく、そもそも傘がどこで手に入るのか、5年住んでいても知らない。たまに見かける傘は馬鹿でかく、持ち手が曲がっていないので、さながら侍かのように真っ直ぐな持ち手を握りしめて持ち運ぶ他ない。徒歩通勤の私にとっては死活問題である。職場に着く頃にはスニーカーも靴下もズボンの裾もびちょびちょ。僅かにあったであろうやる気も一気にマイナスになってしまう。

というわけで、長靴を買った。Amazonで見繕った適当なものなので、真っ黒の、ふくらはぎの真ん中くらいまである何の変哲もない長靴である。一瞬、本気で胸まである胴長にしようかとか、おさるのジョージみたいな黄色の長靴にしようかとも思ったのだが、何とか正気を保つことができた。ちなみに胴長は人生で一度は履いてみたい。何だったらウェディングドレスよりも着てみたい。夜な夜な勤しんでいるゲーム『スプラトゥーン』の中でもキャラクターに胴長を履かせている。とはいえ、胴長で出勤するわけにも、サルになりきるわけにもいかず、無難なところに落ち着いてしまった。

最近の長靴はおしゃれなもので、Amazonにあったモデルさんの着用写真とか、街中でおしゃれ長靴を履きこなしている方々はとても素敵に見える。長靴というより、レインブーツといったほうが的確な気がする。ジーンズに合わせるショートのレインブーツは、かなりイケていた。自分もそんなふうに履けるかと思ったのだが、そうはいかないのが人生である。そもそも、私は足がバカでかいのでレディースの長靴は入らない。今回も男女兼用のものを買ったので、なんとなく野暮ったい。男女兼用なので、長さも中途半端。足が一番太く見えるであろう長さである。出勤にしか使わないだろうと思うと、みてくれなどどうでもいいのかもしれない。ただ足元の治安を保つことができれば、長靴冥利に尽きるというものである。

しかしながら、曲がり角でパンをくわえた超絶イケメンな大富豪にぶつかって、恐れ多くも一目惚れしていただくシナリオもゼロではないと考えると、こんな長靴で出会いたくはない。長靴をはいた私はさしずめ長靴を履いた子豚である。ここで豚と言い切ってしまうと、自尊心が地に落ちてしないそうなので、「子」の一文字の持つ可愛さに、己の自己肯定感を託したい。実際、子豚は生後6ヶ月で100kgを超えるらしいので、豚基準なら私は赤ちゃん、そう、赤ちゃん豚である。大富豪ともあればきっと人格者だろう。ともすると、長靴だろうが胴長だろうが、見た目で人を判断したりはしない。大富豪は生き物を飼っていて、私よりはるかにいい食べ物を与えたりしているはずなので、きっと生き物全般に優しいはずだ。そう考えると望みもあるのかもしれない。

「あるある」ではあるが、長靴が届くのを待っているうちに晴れに日が続くようになった。たまに小雨のような、霧雨のような雨は降るものの、Amazonで購入ボタンを押したあの日のような大雨には見舞われていない。せっかく買った長靴を早く履きたい気持ちもあるのだが、こればかりは仕方ないので気長に待とうと思う。大富豪に見初められる日もまた、気長に待とうと思う。

 

LAMBー静寂の白夜のなかで

人魚は胎生か卵生かを考えていたら、半日が過ぎたことがある。

半獣半人は、昔から創作物のテーマとしてテッパンである。ケンタウロス、セイレーン、ケモノっ娘などもそこに含めてもよいかもしれない。たいていの場合、上半身が人間で下半身が獣である。言葉を発することができなければ、物語が進まないので仕方ない。

そう思うと、この作品はある意味画期的ではあった。公式サイトによると、『禁断が産まれる 世界が騒然、そして絶賛!禁断のネイチャー・ホラー』である『LAMB/ラム』である。映画のパッケージとして現れるのは、聖母マリア像のごとくに羊を抱く女性である。産まれたのはこの羊であり、多分この羊は半人半獣なのだろうということはトレイラーからも察しが付く。となると、この羊は下半身が人間という珍しい半獣半人なのだろう。というわけで、早速観てみた。

 

klockworx-v.com

 

『ミッドサマー』と同じ配給会社、そして舞台はアイスランドということで、きっと北欧ホラーによくある、不気味なほどに明るく、景色の美しさと得体のしれないものを対比させて恐怖感を演出するのだろうと思っていたら、正解だった。全編を通し、ほぼほぼ「明るい」。白夜ということだろうか、そもそも「夜」のシーンがない。暗がりからお化けがでてきたり、仄暗い水の底から何かが出てくることもない。そしてテンポはかなりゆっくりで、登場人物も少ない。そして何より、静かである。無駄なBGMも効果音もなく、登場人物も非常に寡黙である。いや、そこでは悲鳴が出ちゃうでしょ、と思うシーンでも、夫婦揃って一言も声を発しない。ただただ、壮大な山々に囲まれ、白んだ淡々とした日々の中で、物語は進んでいく。

聖母マリアのように羊を抱く女性、というあたりで薄々気が付いてはいたが、この映画のベースにはきっとキリスト教観がある。聖書では、主は羊飼いであるし、我々は迷える子羊である。戻ってきた兄の意味するところはなんだろうか。サタニズムを彷彿とさせるシーンもある。二重に絡まる親子観、特に母と子の間にある抗えない関係、そして人間の原罪。詳しいことは割愛するが、聖書への造詣が深いと、より楽しめる映画かもしれない。

しかしながら、最終的にはやや投げっぱなし感の否めない終わり方ではあった。ちょっと待ってくれよと思う、唐突に訪れるラストシーン。結局何だったのか分からないままにエンドロールが始まる。このスッキリしない終わり方を以って酷評することは簡単である。ただ、それだけで終わらせるには惜しい作品だ。事実、私もこの映画を観た後に、あのシーンは何だったのか、何を暗喩していたのかと、しばらく眠っていた聖書を出してきて考えてみたりもした。気がつけば半日以上はそんなことをやっていたような気がするので、少なくとも人魚の生まれ方について考えるよりは脳を使った。そうやって反芻させるのがこの映画の目的であるとするならば、我々はもう羊なのであり、あの広大なアイルランドの白夜の中に取り込まれてしまっていると言えよう。

 

 

子供 : 死なない

動物 : 死ぬ

セックスシーン : あり

心臓に悪いシーン : ほぼなし