砂浜の瓶詰め

砂浜を瓶に詰めて、小さな海を作りたい。ハワイの有益な情報はほとんどありません。

かおちゃんライフZ

*北陸の地震の被害に遭われた方にお見舞い申し上げます。皆さまのご無事と復興を心よりお祈り申し上げます。

 

 

2024年になってしまった。

昨年は公私共に目まぐるしく変わった一年だった。ここでいちいち書くのもアレなので羅列はしないけれど、もう本当にこんな一年があるのかと言うくらい、色々詰め込まれた一年だった。例えるならばドラゴンボールとベルサイユのばらとこち亀とワンピースの最終回が一気に来たような感じだろうか。相変わらず例えがわかりにくいが、人生におけるあらゆる種類の月刊誌が急転直下の回を迎えたということである。とにかくバタバタであったし、精神的にだいぶ落ち込んだこともあった。幸いなことに、加齢に伴う細かい体調不良のほかは身体はおおむね健康であった。ともあれ、無事に年を越せたことに感謝したい。

年を越す少し前に、2つ前のブログのエントリー、

世界の中心で愛を叫んだアンドロイド - 砂浜の瓶詰め

のプレビューが一気に伸びた。すわどこかに晒されたのだろうかとヒヤヒヤしたのだが、そう言うわけではないようなので安心した。世界のどこかにまだ、私の文章を読んでくださる方がいらっしゃるということにもまた、安心した。特段文才があるわけでも、面白いことがいえるわけでも、有益な情報を発信できるわけでもないこのような私の文章を読んでいただけるなんで、光栄としかいいようがない。読んでくださった方、スターを送ってくださった方、ありがとうございました。この場を借りて御礼申し上げます。

そうして、ちまちまと伸びたプレビューを見てニヤニヤしている間に、2023年はその使命を終え、静かに2024年に移ろっていった。今年は前厄である。昨年以上のことはもうこの一生の中でないような気がしているので、きっと穏やかに過ごせるはずである。予習とか先取り学習が大嫌いな私にそんなことができるのかは甚だ疑問であるが、そういうことにしておかないとやってられない。

ちょうど1年前、一年の目標を「自由」と決めた。世の中や自分自身が決めたバイアスやルールや思い込みから自由になりたいと思った。思ったよりも苦しい道のりであったが、だいぶ自分のことを好きになれた一年であった。そして、思いもよらないことから自由にもなれた。今は本当に自由に、好きなように日々を過ごせている。さて今年はどうしようか。そろそろ大人になりたい気もするし、前に向かって進みたい気持ちもある。新しいことに挑戦する一年でもありたい。色々と考えた結果、今年の目標は「整」にしようと思う。体も心も整え、自分が足をつけている地面をならしていきたい。人との関わりや、自分自身、そしてこれからの未来へ続く道のりを整えてゆきたい。そう思ったのである。サブ目標としては、「好きといえるものを増やしていく」「フットワークを軽くする」「ご機嫌で日々を過ごす」の三本柱で、日々楽しく愉快に生きていこうと思う。

目標も決まったことだし、毎年正月にしている「やりたいことリスト100」を作ろう。いつもはアナログの手帳の最後ページに書いて、達成したらチェックを入れていく方式にしているのだが、せっかくブログを始めたことだし、何か他のやり方がないかと考えている。ここで公開して、達成するごとにそれについて講釈を垂れてみてもいいのかなと思っているが、果たして誰が興味があるのだろうか。100個達成したとて、どんな願いでも叶えてくれる秘宝が手に入るわけでもない。そのミッションは悟空に任せるとして、とりあえずはリストを整えることに専念したい。

 

今週のお題「2024年にやりたいこと」

朝はねじれて

体の歪みが甚だしい。らしい。

椎間板ヘルニアをやって、救急車で運ばれてから一年半が過ぎた。腰痛はもはやパートナー的存在になりつつある。毎日痛いわけではないのだが、変な寝方をしたとか、変な座り方をしたとか、体重がちょっと増えたとか、寒い日が続いたとか、そんなちょっとしたことでかまってちゃんを発揮する厄介なパートナーである。特に、私はうつ伏せに寝て、片足を直角に曲げ、もう片方の足をまっすぐ伸ばすというヘンテコな寝方をするので、朝起きると背中から腰にかけてが固まって動かないこともままある。通っているカイロプラクティックの先生によると、そのせいで背骨が捻れているのだそう。ひどい肩こり首こり頭痛も、左首ー右肩ー左腰が悪いらしく、とにかくストレッチと仰向け寝をしてくれと言われている。ストレッチは自分でできるものだが、寝方はそうはいかない。誰かが私をベイビーモニターででも見ていて、寝返りを打つたびにひっくり返してくれるのならば話は別だが、そうはいかない。カイロの先生には、代わりに枕や抱き枕で自分の周りを固めるといいと言われてしまった。

昔コラムにも書いたので、マニアの方(いるのだろうか。いたらご一報いただきたい)はご存知だと思うが、130センチのアヒルのぬいぐるみを持っている。かつて抱き枕がわりにと買ったものなのだが、実は奴は養子に行ってしまった。ある日、我が家を訪れた甥がいたく気に入り、そのまま彼のアヒルとなったのである。子供のことなので、飽きているなら返してもらおうかと思ったのだが、驚くことにダッキーと呼ばれるそのアヒルは今も彼の夜伽をしているらしい。そうなれば4歳児からアヒルを取り返すような蛮行には及べないのである。

最近はハワイも冷え込んでいる。20度台前半の日が続き、雨風も結構強い。その気圧の変化のせいもあろうか、非常に腰が痛む。なるべく暖かい格好をして、ストレッチもより入念に、そして悪化しないようにタイガーバームや偽物のサロンパスみたいな湿布も貼っているものの、やはり腰の痛みが強くなってきている。寒さのせいでより姿勢が悪くなっていることも関係するのだろうか。雨の日に膝が痛むと言っていた、実家の近所のおばちゃんの気持ちが今更ながら理解できた。

その近所のおばちゃんは、そうなるとすぐさま病院に行っていたような気がするが、ここはアメリカ。そうはいかないのである。一年半前、腰痛で動けなくなり救急車で運ばれた日。腰から下に力が入らず、あまりの痛みに嘔吐しているにも関わらず、何の治療も検査もされず、オピオイドの痛み止めだけ出されて返された日。アメリカの医療の洗礼を受けた日であった。そして今度は心臓が悪くなるほどの請求が来た日。腰の痛みを覚えるたびに思い出されるあの日々のことを忘れてはならぬ、と再度心に誓うのである。あの日のことを思えば、日々のストレッチが何であろうか。寝相を良くするのなど屁でもない。そのためにはやはりダッキー奪還が必要な気もする。来たるクリスマスには、新たなダッキーを甥にプレゼントし、旧ダッキーを再びこの手に。腰痛との戦いはまだまだ続くのである。

世界の中心で愛を叫んだアンドロイド

文章を書くというのは、意外と体力を使う。

というのは言い訳に過ぎず、気がつくとブログを書く体力と気力のないままに時間が過ぎてしまっていた。最近思うことといえば、この世の中には愛が溢れ過ぎているということである。愛が溢れていたらそれは幸せなことではないか。キリストのいう隣人愛のように、みんながみんな隣人(この場合は「となりびと」と読むのが正しい。間違っても隣の部屋で昼夜問わずマリファナをキメているような住人のことではない。なおこの住人はかつて私が住んでいたアパートに実在していた。お陰様で私はマリファナの匂いを覚えたのである。閑話休題。)を愛することができれば、きっとこの世の中は平和でいられるはずだ。けれどもそうはいかない、ということは、世の中には愛が足りないのである。

ところがどっこい、巷で流行っている歌はほぼ全てと言っていいほど愛を歌っている。近頃では、アンドロイドですら愛を歌える。奴らは愛も知らぬうちに、心を持たぬうちに、まっすぐな愛を歌えるようになるのである。愛というのが正しいか、恋というのが正しいか。三十にもなると初恋やら青春やらは遠い昔の話で、胸に込み上げてくる甘酸っぱいものがありし日の記憶なのか胃酸なのかすら判別がつかない。これでも、大好きな先輩を思って枕を濡らしたことがあったようななかったような気もするが、一つ確実に覚えているのは、初恋の人は水戸泉という関取であったことだけだ。齢三歳の頃であっただろうか。とにかく水戸泉関が好きで、彼の黄色に輝くまわしを目で何度追ったことだろうか。ブラウン管のぼってりしたテレビの前に、曽祖母と並んで胸をキュンキュンさせたものである。とんでもない変わり者だし、筋金入りのデブ専なのである。

そんな水戸泉関は、なんと私の誕生日に入籍された。自分の誕生日どうこうよりも、そのニュースがあまりにショックで、忘れられない出来事として記憶に刻まれている。別に水戸泉関と交際したいとか、結婚したいとか、女将になりたいとか思っていたわけではない。ただ初恋は実らないものだということを、その都市伝説にも似た現実を、突きつけられたことから立ち直れなかったのである。もちろん彼と、奥様の幸せを心から祈っている。私は初恋が実らなかったからといって、初恋の人を憎むほど子供ではないのである。

人を恨むと、文章を書くどころではないほど体力を使うだろう。疲れることは大嫌いだし、もう今現状、十分なほどに疲れているので、これ以上疲れることはしたくはない。人を恨もうが憎もうが、もっと言うと妬もうが羨もうが、自分が負のエネルギーを出したところで世の中大して変わらないのである。そのエネルギーがカロリー消費に繋がるなら考えなくもないが、ストレス痩せを一度たりとも経験したことがないので到底無理な話であろう。

絶対に許さないと思っている人が一人や二人いるのが人生なのかもしれないが、丑の刻参りのための早起きも絶対に嫌だし、方向音痴甚だしい私が生き霊を飛ばしたところで迷子になるのがオチな気がする。黒魔術をしようとしたとて、スペルミス女王の私である。とんでもないものを召喚しそうな気がする。というわけで、のんべんだらりと省エネモードで楽しく愉快に生きていくことをヨシとしている私には、消去法で愛を尊ぶ生き方をしていこうと思っている。

繰り返しになるが、アンドロイドでも愛を歌える時代である。初音のミクさんなんかは恋愛においては百戦錬磨であろう。そういえばミクさんが流行っていたのは私が中学の時であったか。ミクさんの歌声が、振り向いてくれない先輩の背中に重なったことがあったではないか。鼓動が速くなってきた気がする。これが心筋梗塞の前触れでないことと世界平和を心から祈りつつ、今日も眠りにつきたい。

姉妹鍋

5歳年の離れた妹がいる。

顔や声はよく似ていると言われる。私の方が背が高くて面長。ド直毛の私とくるくる癖っ毛の妹、大きな違いはそれくらいかもしれない。二人とも数字を弄るような仕事をしているし、同じゲームで遊んでいるし、外も中もよく似ていると思う。第三者に「よく似ているね」と言われると、「かわいい方が私です」と答える十八番まで一緒だ。

ところが、食の好みは全く違う。同じ家庭で、同じ手料理を食べて育ったはずなのに、全く違う舌を持っているのである。だから外食する時は意見がまとまらなくて困る。どこに行くか決まらず結局家で何か適当なものを食べるということもよくある。近頃は、偏食王子の異名をとる彼女の息子、すなわち私の甥っ子が参戦してくるので、彼の「食べられるもの」があるかどうかも基準になってくる。そうすると、彼が確実に食べるであろう白米を家で炊いて食べるのが最適解となりがちだ。

ふと思い出したことがある。私の記憶する限り最後の妹との喧嘩は鍋にまつわるものであった。あれは私が高校生くらいの時であったか。田舎特有の大きなショッピングモールの中に鍋屋で家族で夕食を摂ろうとしていた。私は断固しゃぶしゃぶ、妹は絶対にすき焼きと両者一歩も譲らない状況であったのだ。私は味に変化のないすき焼きは嫌だと言い放ち、妹はただの湯で茹でた食べ物に何の価値があるのかと捲し立てた。今考えると最高にくだらない言い争いである。結局、テーブルを二つに分けていただいてそれぞれ食べたいものを食べたような気がするが、お互いがお互いを自分の食べたい鍋の良さをわからない愚か者だと見下しとしばらくの間口を利かなかったような気もする。心底くだらない。せめて、これが最後の姉妹喧嘩であってほしいと願うばかりだ。

そんな私たちが心から同意して食べに行くものの一つが火鍋である。二人とも辛いもの好きであることは少ない共通点の一つで、その中でも麻辣の虜なのである。ホノルル・ワード地区に位置する中国系の火鍋店は、羊肉や板春雨といった、普段あまり食べないものも食べられる。ここで食べる板春雨があまりにも美味しかったので、Amazonで似たような春雨を買ってみた。届いたので早速食べようと思ったのだが、裏面をよく見ると8時間以上水につけて戻さないといけないらしい。そんなわけで、バリバリの板春雨もまた、私のキッチンキャビネットにしまわれているのである。

話を元に戻そう。その火鍋屋では、舌がビリビリ痺れるような火鍋以外のスープも選べるが、ここでは一致団結して火鍋一択である。真っ赤なスープに浮かぶよくわからない薬膳のスパイスが、何ともいい味を出している。羊肉はそのスープにピッタリだし、エビや海鮮団子なども忘れてはいけない。ついついスープも飲みすぎてしまって、お腹の調子が非常によろしくないことになりがちであるが、それくらい美味しいのである。もちろん味も美味しいのだが、大人になると疎遠になってしまう兄弟姉妹が世の中には多くいる中で、たった一人の妹と鍋をつつき合うというノスタルジーを孕んだ幸福感は、何物にも代え難い。

しゃぶしゃぶすき焼き大戦争を経て、麻辣の味がわかる大人になった私たち。もう私はしゃぶしゃぶの刀で切り捨て御免ということはないし、彼女もすき焼きの錦の旗で私をぶん殴ってくることはない。もしもこれが紅白鍋合戦であるならば、紅組の大勝利、といえるだろう。

 

今週のお題「紅白鍋合戦2023」

開かずの水筒

常夏の島も、ぐっと寒くなった。

と言っても、まだまだ半袖短パンでも十分生活できるし、日中の日差しは相変わらず刺すように強いので、当島比で寒くなったというだけで、十分暖かい。しばらく歩くと汗ばむことには変わりない。暑がりの上に徒歩通勤の私にとってはまだまだ快適とはいえない天気が続いている。

体には非常に良くないことは承知の上で、私はキンキンに冷えた水が好きだ。こう見えて意外とソーダの類は飲まないのだが、炭酸水も、お茶も、紅茶も、できればしっかり冷えていてほしい。欲を言うと、氷を入れて冷えた飲み物ではなく、飲み物そのものが冷えているととても嬉しい。冷たい飲み物を控え、常温あるいはあたたかい飲み物を飲むことは美容と健康への第一歩であることは重々承知の上で、それでも美容と健康を犠牲にしても冷たい飲み物を飲みたい。食道がスッキリするような、血液が浄化されるような、何とも言えない爽快感の虜なのである。

そんなわけで、自宅の冷蔵庫の三分の一は飲み物が占めている。水、炭酸水、緑茶、時々ビール。二日酔い対策に数本のスプライト。飲み物エリアを決めて、そこには常に冷えた飲み物が常駐できるよう気を配っている。昔は飲み物専用の小さい冷蔵庫を持っていた時期もあったほどだ。ハワイの水道水は、日本には劣るものの安全で、そのまま飲むこともできるらしいが、どうも私のお腹には合わないようなので割高ではあるがミネラルウォーターを購入している。ペットボトルの緑茶は高級品なので、ティーバッグで自分で淹れて、それをわざわざ冷やしている。

先日、ダイソーに行った際に、横置きできる冷水筒という素晴らしいものを見つけて早速購入した。見た目は透明のプラスチックでできた四角い飲み物を入れる容器だ。ダイソーでは高い方だったが、これがあれば自家製緑茶を入れても冷蔵庫の省スペースにつながるだろうと思ったのだ。注ぎ口が二重構造になっていて、なるほど横においてもこぼれなさそうだーと思ったのも束の間。注ぎ口の開け方はわかるものの、蓋そのものが開かないのである。引っ張ってみたり、回してみたり、色々試してみたものの、開く気配すらない。一瞬、開かない仕様なのかとも思ったが、どうみても開きそうなのである。そもそも開かなければ中に液体を入れることは不可能だろう。無理をすると注ぎ口の方が壊れてしまいそうなので、とりあえず一旦そのアイテムのことを忘れることにした。

そして時が経って、はたと思い出した。冷蔵庫の上に放り上げていたそいつと目があったとも言える。せっかく買ったのだから、使ってやらねばなるまい。そして重い腰を上げ、まずはグーグル教授に尋ねてみた。腰を上げるほどのことでもなかった。すると「ダイソー 横置きできる冷水筒 開け方」がサジェストのトップにあった。さっさとググればよかったのだ。ところが、「反時計回りに回す」と書いてあるだけである。それは注ぎ口の開け方で、それはとっくに知っているのだ。私が知りたいのは蓋の方の開け方なのだ。この蓋が開かないことには、液体を入れるのは非常に難しそうだし、隅々まで洗うことも簡単ではなさそうだ。

結局、色々と探してみたものの、今のところ蓋の開け方にたどり着けていない。私の探し方が悪いのか、そもそもこの蓋は開かない仕様なのか、それすら分かっていない。そしてまた、見るもの嫌になってきて今度はキッチンの棚の中にしまった。こうして我が家の七不思議がまたひとつ増えてしまった。開かずの冷水筒である。

今度ヤツと目が合うのはきっと、滅多に使わないパスタ鍋を引っ張り出すときだ。そのころにはきっと、季節は七不思議が似合うまでに移ろっていることだろう。

 

今週のお題「最近飲んでいるもの」

バニラはピンクの夢を見る

実を言うと、今あまり体調が良くない。

特にこれといってここが痛いとか苦しいとかいうわけではないのだが、元々隠し持っていた十二指腸潰瘍の気配がしているのと、肩こり首こりが非常に辛い。そのせいか頭がほんのり痛いし、腰もいつも何となく重だるい。ここ数日でハワイにも急に寒波と強風がやってきて、その寒暖差に心と体がついていかない。そういう「何となく調子が悪いが病気というほどではない」という中途半端な状態が続いている。毎日すっきりハッピーハッピー、飛んだり跳ねたり何でもござれには程遠いものの、日々何とか生きていくのは可能という厄介なステータスだ。

デスクワーカーなので肩こり首こり眼精疲労は職業病のようなものといえよう。一日中コンピューター画面を見つめているし、気がつけば猫も驚くほどの猫背になってしまっている。時々思い出したように姿勢を正してみたり、ストレッチしたりするが、それが効いているのかは甚だ疑問である。自分のお腹とデスクの間にぬいぐるみを挟むようにすると、そのぬいぐるみを落とさないように自然と姿勢が良くなるという話を聞いて、クローゼットの中からぬいぐるみを探そうとしていて脇腹が攣った。体調が万全でないと、やることなすこと裏目に出てしまうのである。

そんなときは食って寝るに限る。何か本当に体調が悪いなら、腹を括って医者に行こうとも思うが、ただの疲労の蓄積ならば食って寝るしかない。栄養のある、好きなものを食べて、好きなテレビでも軽くみて、さっさと床に就く。そこから少し元気になってきたら、体を動かしたり、何かリフレッシュできることをしたり、マッサージに通ったりと次のステップに進むべきであろうが、疲労困憊しているときは食って寝る。以上。

というのが自分の中のベストアンサーであったのだが、最近食うも寝るもぐったりしていることがある。なかなか寝付けないとか、寝ても変な時間に目が覚めるとか。食欲がない、ということは滅多にないのだが、胃腸の様子がおかしいことが増えた。今日も胃の調子がおかしいので、胃腸がピンクに染まるのではないかというくらいどピンクの胃薬を買ってきた。効くといいのだが、どうにもプラシーボ効果なのではないかと思うくらい、信用できない色をしている。ちなみに味はねっとりした甘ったるい何とも言えない味である。ちなみにこの薬、飲むと何故か舌が黒くなる場合があるらしい。どういう機序で何にどう効いているのか、そもそもそんなピンクにする必要があるのか、さっぱりわからないが、こちらの薬局ではその薬が幅を利かせているので、多分どうにかして効くのだと思う。

ついでに薬剤師に空腹時に胃痛がするので十二指腸潰瘍の気がするが何を飲めばいいのかと尋ねると、バニラアイスを食えと言われてしまった。胃に膜を張ってくれるらしい。ほんとかよと心の中で総ツッコミを入れながらも、前回十二指腸をやったときにも医者から同じことを言われた記憶が蘇ってきた。そのときも同じツッコミを入れながらバニラアイスで治した気もしてきたので、ついでにバニラアイスも買ってきた。

家に帰って冷凍庫を開けると、前回胃痛に悩んだときに買ってきたであろう食べかけのバニラアイスが入っていた。全く覚えていなかったことに心底驚愕した。そして、そこまで見ても、前回どうやって胃痛を治したかどうか全く思い出せない。十二指腸も心配だが、記憶力の方が心配になってきてしまった。そうしてなんだかんだ心配していると、きっとまたそのせいで胃が痛くなる。とりあえずバニラアイスを食べて、謎のピンクの薬でものんで、初心に戻ってさっさと寝ようと思う。

明日はいい日になりますように。攣った脇腹と胃の痛みが、少しでも和らぎますように。

 

今週のお題「体調が悪いときの過ごし方」

呑んで呑まれて

私は酒に弱い。前もって忠告であるが、やや汚い話になる。

もう、とんでもなく弱いのである。酒の失態は数知れない。見た目は酒豪そうに見えるらしく、大きな勘違いをされがちであるが、驚くほどに弱い。どれくらい弱いかというと、グラスビールだと1杯が限界、弱いあまあまゆるふわカクテルなら何とか2杯。それを超えると、もうとんでもないことになる。たまに家で缶ビールを開けると、半分飲むか飲まないかでブラックアウトしている。あまりにも弱いので肝臓に問題があるのかと検査を受けたが、若干脂肪肝の気がある他は肝臓の値は全くもって正常で、「ただ酒に弱い体質の人」と烙印を押されたに過ぎなかった。

酔って泣く人、騒ぐ人、絡む人、脱ぐ人、踊る人。いろんなパターンがあるが、私のパターンは往々にして飲むと顔や関節が赤くなり、気が大きくなって人に絡み始め、調子に乗って2杯目に突入したあたりで顔が青くなって消化器官をひっくり返すことになる。そうなってしまうと思考回路の全てが「気持ち悪い」に終始し、胃をひっくり返して口から引っ張り出して冷水で洗いたいとかそういうことを考え始めてしまう。血の気が引いて歩けなくなることもある。そしてほうほうのテイで家にたどり着いたとて、そこからは「もう2度と酒は飲まないのでこの苦しみから救い出してください」と神に祈る数時間が続く。毎度毎度のことなので、神様もいい迷惑だと思う。神様だからいいものの、仏様ならとうの昔に愛想を尽かされているだろう。

日本で会社員だった頃、会社の近くで飲むことが多かったので、会社の最寄駅から自宅最寄駅にに帰る路線のすべての停車駅にあるトイレの位置を把握していた。文字通り一駅ずつ降りては口から虹を出して、自宅まで帰っていたので名物の「各駅停瀉」と呼ばれていた。停「車」ではなく「瀉」であるあたりで、私がそれぞれの駅で何をしていたか察してほしい。ナニをしている間に二進も三進も行かなくなって途中の駅のトイレで終電を逃し、やむなくビジネスホテルや漫画喫茶で夜を明かしたこともある。もちろん、そこでは祈りの時間が続くのである。

色々と対策は立てているつもりである。飲む前に軽く食べておくとか、アルコールと同じ量の水を飲みながら飲むとか、飲んだ後には糖質を摂るとか、できる限りのことはやっている。それでもダメなのだから、もうどうしようもないのである。断っておくが、酒の場そのものは嫌いではない。大人数でワイワイガヤガヤは得意ではないが、気心知れた人たちとおしゃべりしながらの酒の場は最高である。だからついつい誘われると行ってしまうのである。

つい先日も、うまいビールに醸造所があると誘われ、ホイホイついて行ってしまった。ちゃんと直前にお菓子を食べて空きっ腹を避け、しっかりと食事をとりながら、そして水を大量に飲みながらの1杯だけ。私はもう新卒戦士だったあの頃とは違う、自分をちゃんとコントロールできるのだと証明するのだと意気込んでの、久々の外飲みであった。

全ては順調であった。ビールはとても美味しかった。誘ってくれた知人に絡むこともなく、隣のテーブルに乱入することもなく、その場で動けなることもなく、メニューを頭から音読し続けることもなく、スマートに楽しいひとときを終え、ウーバーに颯爽と乗り込んだところまではよかった。そこからの記憶はイマイチあやふやなのだが、気が緩んだのか、ドライバーに絡みまくったらしい。「君は日本人にしては珍しくよく喋るね」と嫌味を言われたことだけは覚えている。そして無事に帰宅し、数時間後に一瞬途中下瀉の旅に出そうになったが、何とか爽やかな朝を迎えることができた。起きて最初にウーバーの評価を確認したが、下がっていなかったのでドライバーには追加のチップを送っておいた。せめてもの贖罪である。

NHKー飲んだら吐かずに帰る。大人として当然のマナーである。私はあの夜、NHKチャレンジを無事成功させた。それは間違いない。次はNHKー飲んだら吐かない絡まない。私のNHKチャレンジはまだまだ続くのである。