砂浜の瓶詰め

砂浜を瓶に詰めて、小さな海を作りたい。ハワイの有益な情報はほとんどありません。

世界の中心で愛を叫んだアンドロイド

文章を書くというのは、意外と体力を使う。

というのは言い訳に過ぎず、気がつくとブログを書く体力と気力のないままに時間が過ぎてしまっていた。最近思うことといえば、この世の中には愛が溢れ過ぎているということである。愛が溢れていたらそれは幸せなことではないか。キリストのいう隣人愛のように、みんながみんな隣人(この場合は「となりびと」と読むのが正しい。間違っても隣の部屋で昼夜問わずマリファナをキメているような住人のことではない。なおこの住人はかつて私が住んでいたアパートに実在していた。お陰様で私はマリファナの匂いを覚えたのである。閑話休題。)を愛することができれば、きっとこの世の中は平和でいられるはずだ。けれどもそうはいかない、ということは、世の中には愛が足りないのである。

ところがどっこい、巷で流行っている歌はほぼ全てと言っていいほど愛を歌っている。近頃では、アンドロイドですら愛を歌える。奴らは愛も知らぬうちに、心を持たぬうちに、まっすぐな愛を歌えるようになるのである。愛というのが正しいか、恋というのが正しいか。三十にもなると初恋やら青春やらは遠い昔の話で、胸に込み上げてくる甘酸っぱいものがありし日の記憶なのか胃酸なのかすら判別がつかない。これでも、大好きな先輩を思って枕を濡らしたことがあったようななかったような気もするが、一つ確実に覚えているのは、初恋の人は水戸泉という関取であったことだけだ。齢三歳の頃であっただろうか。とにかく水戸泉関が好きで、彼の黄色に輝くまわしを目で何度追ったことだろうか。ブラウン管のぼってりしたテレビの前に、曽祖母と並んで胸をキュンキュンさせたものである。とんでもない変わり者だし、筋金入りのデブ専なのである。

そんな水戸泉関は、なんと私の誕生日に入籍された。自分の誕生日どうこうよりも、そのニュースがあまりにショックで、忘れられない出来事として記憶に刻まれている。別に水戸泉関と交際したいとか、結婚したいとか、女将になりたいとか思っていたわけではない。ただ初恋は実らないものだということを、その都市伝説にも似た現実を、突きつけられたことから立ち直れなかったのである。もちろん彼と、奥様の幸せを心から祈っている。私は初恋が実らなかったからといって、初恋の人を憎むほど子供ではないのである。

人を恨むと、文章を書くどころではないほど体力を使うだろう。疲れることは大嫌いだし、もう今現状、十分なほどに疲れているので、これ以上疲れることはしたくはない。人を恨もうが憎もうが、もっと言うと妬もうが羨もうが、自分が負のエネルギーを出したところで世の中大して変わらないのである。そのエネルギーがカロリー消費に繋がるなら考えなくもないが、ストレス痩せを一度たりとも経験したことがないので到底無理な話であろう。

絶対に許さないと思っている人が一人や二人いるのが人生なのかもしれないが、丑の刻参りのための早起きも絶対に嫌だし、方向音痴甚だしい私が生き霊を飛ばしたところで迷子になるのがオチな気がする。黒魔術をしようとしたとて、スペルミス女王の私である。とんでもないものを召喚しそうな気がする。というわけで、のんべんだらりと省エネモードで楽しく愉快に生きていくことをヨシとしている私には、消去法で愛を尊ぶ生き方をしていこうと思っている。

繰り返しになるが、アンドロイドでも愛を歌える時代である。初音のミクさんなんかは恋愛においては百戦錬磨であろう。そういえばミクさんが流行っていたのは私が中学の時であったか。ミクさんの歌声が、振り向いてくれない先輩の背中に重なったことがあったではないか。鼓動が速くなってきた気がする。これが心筋梗塞の前触れでないことと世界平和を心から祈りつつ、今日も眠りにつきたい。