砂浜の瓶詰め

砂浜を瓶に詰めて、小さな海を作りたい。ハワイの有益な情報はほとんどありません。

ヒトとして生きるか、ニワトリとして生きるか

私はヒトの子である。

母はヒトであるし、父もヒトである。母がニワトリと浮気をしたという話も聞かないし、翼もないので、ほぼ間違いなくヒトの子であろう。ヒトの親になるかどうかはまだわからないが、ヒトの子であることは一生涯かわりのない事実である。

ここで、「人」ではなく「ヒト」と表記しているのは、生物学上の意味を示したいからだ。決してカッコつけているわけではない。世の中には、親とも呼べぬ親はたくさんいるし、そんな親から生まれた方々がいることも重々承知している。そこに無償の親子愛を求めることが、そして血のつながりとやらを強調するのが、どんなに酷であるかを考えると、容易く「人の子」というのは憚られる。だから、我々は皆、生物学的にはホモサピエンスの子である、という意味で読んでいただけると嬉しい。

ヒトの子として生まれ落ちたからには、他のヒトの子と関わって生きていかねばならない。いいこともあるし、悪いこともあるし、嫌なことも、幸せなことも、たくさんある。それがこの世界の秩序であり、ヒトとして生きていく上で必要不可欠なことなのだから、これはもう諦める他ないと思う。誰とも関わらずに一人で生きていきたいと思うことはしょっちゅうであるが、不可能なので受け入れて生きていくしかない。腑に落ちないことではあるが、こればかりはもう、そういうものだと飲み込むしかないのである。

自分がヒトの子であるように、目の前のヒトもまた、ヒトの子である。そのヒトは、そのヒトだけの感情も、生活も、好き嫌いも、そのまた他のヒトとの関係も持っている。その「他のヒトとの関係」を家族と呼ぶのか、恋人と呼ぶのか、友人と呼ぶのかは分からないが、そして、それが幸せなものであるかどうかはまた別の議論となるので割愛するが、平たくいうとそのヒトにはそのヒトだけの尊ぶべき人生がある。そのヒトが自身の人生についてどう思っているのかは関係のなく、そのヒトにはそのヒトが歩んできた人生があることと、そのヒトだけが進むことのできる旅路を持っていることを忘れてはならないのである。

貴方様はまさかトリの子、そうでもなければなぜそんなにも同じヒトを突っつくような真似ができましょうか、と思ってしまうこともある。ニワトリでももっと他のニワトリと仲良くするんじゃなかろうかと、鳥舎に駆け込みたくなる衝動に駆られる。イマジナリー鳥舎の中はさながら魅惑のチキルームで、ニワトリに辿り着く前に原色の鳥たちに邪魔されてしまう。青やら赤やらの鳥に囲まれて頭を冷やしながら、人のふり見て何とやら、自分も人様を突っついたり噛み付いたりすることのないよう気をつけなければ、と思った次第である。それでもまだ気持ちが収まらなかったので、イマジナリー鳥舎の中から強そうなやつを連れて鬼ヶ島へ旅に出ることにした。この辺りでも怒りがおさまらなければ、イマジナリー焼き鳥爆食ツアーになりそうだが、今のところそこまでいったことはない。

とにかく、それくらい、ヒトとして生きていくのは大変だ。すぐ忘れられるのならば、ニワトリの子でもいいかな、と思ってしまう。ニワトリと不貞しなかった母を恨む。しかしながら、その大変さを知っているから、なるべく同じヒトには優しくいたいと思っている。少なくとも、ヒトをコケにしたり、バサバサ威嚇したり、そういうヒトにはならないでおこうと思う。ヒトだけではない。たとえ頭の中であっても、お供を焼いて食うようなヒトにもならないでおこうとも、思う。