砂浜の瓶詰め

砂浜を瓶に詰めて、小さな海を作りたい。ハワイの有益な情報はほとんどありません。

スケバンセラピー

胸を張って言えることではないが、私は口が悪い。

と言っても、コミュニケーション能力に難のある根暗なので、他人様に面と向かって罵詈雑言を吐き散らすこともないし、某お笑い芸人のようにセンスのある悪口がポンポン出てくるわけでもない。腹が立つことがあっても精々ニヤニヤ笑ってその場をやり過ごすことしかできない。では一体どういうことかというと、心の中でたくさんの悪い奴らを飼い慣らしているのである。

別に、多重人格というわけではない。ビリー・ミリガンでもないし、磯良でもない。話が逸れるが、それら二つの、多重人格者にまつわる作品は名作であるのでぜひ読んでみてほしい。前者は実話なのでヘビィだが、読む価値はある。後者はさすが貴志祐介氏である。貴志祐介氏の著作はどれもこれも一旦読了するとしばらくは読みたくなくなる。そしてまた時間が経つと読みたくなって、また読んでしまう。その繰り返しである。ボリュームもあるから時間をかけて読もうと思っていても、一気に読んでしまって後悔するのである。話を元に戻そう。私は私として、確固たる自我がある(つもりである)。しかし、嫌なやつを前にすると心の中ではスケバンが大暴れである。一応スケバン世代ではないのだが、気持ちはスケバンだ。ヤンキーや半グレではない。暴対法に怯える方々でもない。スケバンなのだ。

心の中のスケバンは長いスカートに踵を折ったローファーで、竹刀を肩に担いでガニ股で闊歩している。バシバシになるまで脱色した髪の毛、真っ赤に塗った唇に似合うタバコ。そいつが大暴れである。心の中でピー音を撒き散らしながらツッパるのである。きっと家ではお母さんが涙を流しながら彼女の更生を祈っている。シンナー遊びをしてはいないか、眠る彼女の前歯を幾度となく見に行ったはずだ。とにかく、彼女は一通り暴れてくれる。ここには到底書けもしないようなことも言ってくれる。そして痺れを切らして彼女を回収しにきたお父さんと喧嘩するときもある。いろんなバリエーションがあるのだが、最後にはスケバンはヤンキー座りで、「ま、がんばんな」と私を励ましてくれる。そして、改造原チャリをバリバリ言わせながら夜の埠頭へ消えていくのである。そんな一連のドラマを見ていると、目の前でめんどくさいことを言っている人の講釈は大抵終わっている。

スケバンの他にも、心の中で二匹の猫を飼っている。おおむね床にドデンと寝っ転がっていて、餌の時だけのっそりと起きてくるような怠惰な猫たちである。餌をやったことがないので、もしかしたら他の誰かのところでもらってきているのかもしれない。とにかく、寝子というだけあって、いつも寝ているような猫たちだ。ところが、仕事なり何なりで私が慌て始めると、なんとそいつらは踊り始めるのである。少し昔の作品でWHAT’S MICHAEL?という漫画に出てくるマイケルという猫も踊っていたが、そのイメージに近い。私の慌てっぷりに比例するように、踊りも激しさを増してゆく。ドタバタしているとつい気持ちもイライラしがちであるが、踊り狂う猫を見ていれば多少は穏やかにいられるのだ。そんなわけで、私はその猫たちを「しっちゃか」と「めっちゃか」と呼んでいる。時々、「てんや」と「わんや」と呼んでいることもあるが、さすがに猫に「わんや」と呼びかけるのは猫の尊厳を傷つけているような気がしてならない。

そんなわけで、心の中のスケバンと二匹の猫に支えられて、今日もなんとか人間の皮をかぶって生き、「お口の悪い人」と思われずに済んでいる。もし誰かが私のことを口が悪い人と思うことがあれば、それはきっとスケバンがとうとう警察に補導されてしまったか、猫たちが脱走してしまっているかのどちらかなのだ。どちらにせよ一大事であるので、多めに見ていただけるととてもありがたい。