砂浜の瓶詰め

砂浜を瓶に詰めて、小さな海を作りたい。ハワイの有益な情報はほとんどありません。

ピザの思い出

三連休であった。

ベテランズデーと土日で、三連休であった。多少は生産性のあることをしようと思っていたものの、結局いつも通りの週末が、いつもよりはゆっくり流れていって終わってしまった。遊んでいるゲーム内でのイベントがあったので、そこに張り付いて目が霞むまでゲームしたが、到底30歳女性の休みの日の過ごし方として適切なものではない。とりあえず、このブログを見切り発車ではあるがスタートさせられたことは大きな収穫であったが、それ以上は特段変わりない三日間であった。

この車社会のハワイにおいて、何と私は車を持たない生活をしている。そのため、日々の生活は己の足頼みである。たまにバスに乗ることもあるが、時間通りに来ないーそう、遅れるだけならまだしも、発車予定時刻より先に発車することがあるのだ。バス停で何度発狂しかかったことだろうかーこともあり、基本的にどこまでも歩いていく。日本でJCBカードを作ってきていれば、観光用トロリーにも乗れたのだが、生憎持ち合わせていない。レンタサイクルBIKIに乗るという手もあるのだが、車道をフラフラ走ってクラクションを鳴らされる未来しか見えないので今のところ乗ったことはない。かつては原付を持っていたが、とても愉快なストーリーの末に手放した。いつかブログのネタにしようと思う。というわけで、どこかに遠出するということもなく、せいぜい車持ちの妹に頼み込んでコスコに買い出しに行くのが私にとってのお出かけなのである。

そういった交通事情から、一週間に一度、コスコで食料を大量購入してそれで一週間生き永らえるしかない。配分をミスってしまうと、木曜あたりからひもじい思いをすることになるか、そのまた次の火曜あたりまでギャンブル気分で柔らかくなった野菜を食べる羽目になる。意外に綿密に計算しないといけないので、常に冷蔵庫とは密に連絡を取り合って一週間を過ごしているのである。幸か不幸か、手の込んだ料理をするわけではないので、買うものは大抵いつも決まっている。そして大抵いつも同じようなものを食べている。

思い返せば、一人暮らしを始めて18の頃から似たようなものばかり食べている。簡単なのはスパゲッティや丼もの。最近は健康に気を使い始めたので、コメの代わりにオートミールを米化させてみたり、葉っぱをよく食べるようにしてはいるが、体重は減りはしない。増えないだけヨシとしよう。日本で社会人を演じて、目の下にクマを作っていた頃はよく、金曜の夜にLサイズのピザを頼み、日曜の夜までそれを食べ続けるという愚行も犯していた。金曜の夜から月曜の朝まで、家から一歩も出ず、ただただ趣味に没頭しながらピザを貪っていたのである。今は年齢のせいか胃腸が弱り、絶対にそんなことはできないと断言できる。しかも、ここアメリカでホールピザなど頼んでしまった日にはエラいことになるのは明らかである。

ピザというと思い出す話がある。私の生家は、とんでもない田舎にあった。今では県庁所在市に合併され、大きな顔をしているが、私が小さい頃は恐ろしいほどに田舎であった。周りの家は無駄に大きく、田んぼが広がり、カエルが大合唱し、田舎のお手本のような田舎であった。そして、遠く離れた隣の隣の町あたりにだけ、ぽつんとピザ屋があったのである。ピザーラだったか、ピザハットだったか忘れてしまったが、そこにしかなかったのである。そしてなんと、私の生家の住所は「配達エリア外」だったのだ。家から歩いて10分くらいのところにある町役場までしか、配達に来てくれなかったのだ。たまに、暴走族っぽい格好をした兄ちゃん姉ちゃんが町役場の駐車場にたむろしていたのは、もしかしたら彼らはピザを待っていたのかもしれない。

そんなわけで、私がピザを初めて食べたのは、市内の親戚の葬式だかお通夜だかであったと思う。葬式やらお通夜やらでは確か生臭ものは避けるのではなかったか。ピザなんてとんだ生臭ものだとも思うが、親戚のおばちゃんが子供用にとピザが頼んでくれた。それが人生初ピザであった。初めて生で見るピザに、集まった子供たちは死んだ爺のことなど忘れ、ピザを取り合った。みんな田舎に住み、ピザに憧れ続けてきた純真な子供たちである。目の色を変えて、ピザに群がり、この上に乗っている黒いものは食べられるのかどうかと議論した。子供たちよ、それが我らが故郷香川県がうどん以外にアピールできるものとして掲げるオリーブなのである。

その葬式は例のタバコの爺とはまた違う爺のものだったが、彼もまた大往生であったため、葬式もしめやかに、というよりむしろ、よくぞここまで生きたものだと和気藹々としていたように記憶している。どうも長生きの血筋なのか、やたら長生きする爺婆が多い私の親戚の中でも、彼はお手本のような大往生だった。私が小泉純一郎だったら、「感動した!」と言ってしまったかもしれない。それが、爺の生き様に対する賛辞なのか、ピザに対するほとばしる思いなのかは、知る由もない。

子供たちが食い散らかした後のピザの箱には、子供たちが残したオリーブだけが悲しげに佇んで、この世を去った爺のことを弔っているように見えた。